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と、云ひながら徳次の肩をつかんで押しもどした。誰もが疲労のための一種煤すゝけじみた鎮静を現していたにもかゝはらず、練吉だけは明かにまだ興奮していた。と云つて悪ければ、恐しく深い印象を与へられたものの如くであつた。そして、一応の取調べを受けに、二人の責任者が参考人として自動車に乗せられ、本署のある町まで同行を求められたときに、練吉は自分も乗う込まうとして加藤巡査にひきとめられた。
「心臓は多少弱つているが、大したことはない。――いゝかね、あんたの身体はもともと丈夫な身体だ。ようく診たがどこも悪くはない」
「閉口でしたな」
「すまんでしたな、長話をして」
と、云つた。
「あなたは御存知ないんですかね」
「あいつらと来たら、すぐこれ!だからね」
「うん」
夏蚕なつごで下葉からもぎとられて行つた桑は、今頭の方だけに汚ならしい葉をのこして、全体に透きながら間の抜けた形で風にゆらいでいた。その間を房一の乗つた真新しい自転車のハンドルがきらきら日に光つた。
その次にふり向いたとき、果はたせるかな、殆ど目の前の対岸から、はつきりと彼の方を向き、ためらひながら何か云ひたげにしているやうな相手の顔を見た。それは徳次の幼友達であり、彼の兄貴株でもあれば大将株でもあつた、そして今は彼なんかには傍へもよりつけないやうに感じられるあの「医師高間房一氏」であつた。
房一が云ひかけると
高等科がすむと、彼は突然、法律を勉強しに東京へ出たいと申出て、父を驚かせた。家中の者の反対にもかゝはらず彼は頑として自分の希望を捨てなかつた。するうち、彼の姿が突然見えなくなつた。二三日して、彼は又帰つて来たので一同は安心したが、その間に彼は上流の城下町にある彼の死母の実家へ行つたのであつた。そこの伯父はその町で瓦焼工場を経営していた。頭の鋭い狷介けんかいな老人で、非常な毒舌家であつた。しかしこの老人は毒舌を一種の愛嬌と他人からは思はれるやうな独特な人柄を持つていて、悪口を言ひながら世話を見てくれる、と人から評判されていた。房一もやはりこの老人に手ひどく罵倒された。百姓はやはり百姓をしろ、と云はれて、房一はすつかり悄気しよげて、その晩はそこで泊めて貰つたが、翌朝になると、一通の手紙を示して、これを持つて町の弁護士の所へ行つてみろ、と云つた。弁護士は手紙を読んで、親切に色々なことを話してくれた。彼もやはり苦学して弁護士の資格をとつた男であつた。その晩、伯父は、苦しくもやる気か、と訊いて、それから外そつぽを向いて、やる気なら餞別に少しばかりの金なら出してやるがその前にもう一度家から承諾を得て来い、と云つた。