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房一は思はず笑ひ出した。
「よからう」
「誰かと思つたら――」
荒々しい鮎の走りが竿から腕に、腕から身体の隅々まで伝はつて、それは彼の胸いつぱいに快い感動をひき起した。糸をひきよせるにしたがつて、二つの鮎のひらめきもつれる形が見えた。この二つの生き物は、まるでその持つ力以上の力といふやうなものに駆かられている風に、走り、浮き、旋回し、沈みしつゞけていた。手早く網ですくふ。パシヤパシヤ水が跳ねて、獲物は房一の手の中で強くビクビクと動きやまない。追鮎はまだ元気で、背の色も濃い。ふたゝびそいつを放すと、追鮎は又以前よりもはげしく流れの中央に向つて走り出す。まだすつかりさめ切らない興奮の快さに、ぢつと竿を見まもつたまゝ何か忘れたやうになつていると、やがて又あの強い引きがいきなり彼の腕を胸を荒々しくよびさます。
「そうしてそのお松と言う女は?」
「さうですよ、ですが、何年ぶりでせう。これがもつと他の所だつたらおたがひ気がつかなかつたかもしれませんよ」
これは房一が河原町に帰つて以来、はじめて感じたものだつた。すでに、路上から徳次の姿を見つけたとき、房一はこの男をすつかり忘れていたのを後悔していた。
「ね、大石さん。今夜一つ私のところで慰労宴をやらうといふんですがね。あなたもぜひどうですか。この三人だけでね」
紛まがふことなく、それは神原喜作だつた。
何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取くまどりのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いていた。
盛子の顔からはもうあの一人でうれしがつているやうな無邪気さは消えていた。代りに現れたものは物柔い優しさに満ちた注意深さだつた。
二人は間近かで眩まぶしげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。
「どうも、やつぱりねえ。調子が悪い」